今日は祇園祭「山鉾巡行」ですね

気がつけば、梅雨明けしていた近畿地方。
今年はそんなに雨が降ったような気がしない。

さて、今日は祇園祭「山鉾巡行」です。
京都市内は大勢の人で賑わっております。

今年は「秋葉原の事件」のせいもあって、厳重警備になっている模様。
それでも、喧嘩等は起きているようですが。

せっかくの祭を台無しにしないよう、みなさん、お楽しみ下さい。

私は・・・疲れるのは御免なので、引きこもっております。

みたらし団子は、京都・下鴨が発祥の地?

甘いタレで味わう「みたらし団子」は、京都・下鴨神社の御手洗社にまつわるとされています。
そもそもは神前に備えた串に刺した団子をお祓いの後、醤油につけて食べたのが始まりだとか。
浄められた団子には、厄除け祈願が込められていました。


下鴨神社の祭礼に「御手洗祭」がある。これは境内にある御手洗社の神事で、汗が噴き流れる7月土用丑の日に催される。この日、多くの参拝者は御手洗池に足をつけて、献灯、人形(ひとがた)を流して無病息災を祈願します。
ちなみに「御手洗」とは「清めの場所の意味」であり、トイレと誤解されないように。

「みたらし団子」。御手洗詣でのときに、下鴨の「糺ノ森」で売られた団子というのが一般的です。
団子発祥の説にはほぼ二説があります。
一つは、後醍醐天皇が御手洗川で水をすくわれた時、最初に泡が一つ浮かび、つづいて7つの泡が浮き上がり、これを団子に見立てたとする説。
もう一つは、御手洗祭で流す人形を頭と四肢、つまり人間の五体を団子にして表したとする説です。


知恩院に伝わる七不思議

東山三十六峰の一つ、華頂や魔の麓に境内が広がる知恩院。
浄土宗の名刹であり、ここに七不思議が伝わっています。

浄土宗総本山 知恩院は、境内地を上・中・下段と分け、壮麗無比の伽藍を見せています。敷地面積は7万3千坪になる。山門を始、御影堂、大方丈、小方丈などが並び立ち、浄土宗の開祖、法然上人の教えを今に伝えています。


境内参拝で誰もが目にするものは、御影堂正面軒下に見える「忘れ傘」、黒門の西にある「瓜生石」の二つです。

●忘れ傘
御影堂正面軒下に名工・左甚五郎が魔除けに置いたとも、白狐の化身・濡髪童子がおいたとも伝えられる傘で、知恩院を火災から守るものとされています。

●瓜生石(うりゅうせき)
黒門への登り口の路上にあり、知恩院が建立される前からあるとされる大きな石で、一夜にしてこの石から瓜のツルが延びて花が咲き、実ったと伝わっています。


残りの五つは、大方丈、三門に見られるため、特別公開などを利用して訪ねてください。

●鶯張りの廊下
御影堂から大方丈・小方丈へ至る約550mの廊下で、歩くと鶯の鳴き声(ケキョウ、ケキョウ)に似た音がするため「鶯張りの廊下」と呼ばれ、静かに歩こうとすればするほど音がします。

●大杓子
大方丈入口の廊下の梁に置かれている長さ2.5m・重さ約30kgの大杓子で、阿弥陀仏の大慈悲ですべての人が救いとられるという一切衆生救済を表したものだそうです。

●抜け雀
狩野信政が描いた大方丈の菊の間の襖絵で、万寿菊の上に数羽の雀が描かれていたが、あまりにも上手に描かれたので雀が生命を受けて飛び去ったといわれる。傷跡は抜け雀の痕跡と伝わっています。

●三方正面真向(まむき)の猫
大方丈の廊下にある杉戸に描かれた狩野信政筆の猫の絵で、どちらから見ても見る人の方を正面からにらんでいるので「三方正面真向の猫」と呼ばれています。しかし、親を見つめる子猫はかわいい。

●白木の棺
三門楼上に安置されている二つの白木の棺で、中には将軍家より三門造営の命を請け、三門完成後に工事の予算が超過したため責任をとって自刃したと伝えられている大工の棟梁・五味金右衛門夫婦の自作の木像が納められています。

京都の「夏の味」といえば「鱧料理」

夏の京都で味わってみたいのが「鱧料理」。
5〜10月を目処に食べさせる料亭が多いそうですが、
昔は祇園祭の頃、夏バテしないよう体力をつけるために鱧の脂をとったとか。
だから、祇園祭の別称で「鱧祭り」と当てることがあるかもしれませんね。

海のない京都で魚料理が有名になった一例が「鱧料理」。
梅雨を越すと、鱧も一層おいしくなるそうです。
鱧は歯が鋭く、無数の小骨があります。
だから、そのままでは食べられません。
どうするかというと、「骨切り」という作業をするのです。

鱧の「骨切り」は1寸(約3.3cm)の大きさに24回も包丁で刻むといいます。
すると、骨を気にせず食べられるとか。
鱧のポピュラーな食べ方は、なんといっても「鱧の落とし」。
刻まれた鱧の身はさっと湯引きされ、白身が花びらのように開く。
すぐに冷水に浸して、身が引き締まったところに梅肉のタレなどで味わう。

他にも、鱧料理には、「鱧のしゃぶしゃぶ」、「焼き鱧」、「鱧すき」、「鱧ずし」、「鱧の刺身」などがあります。
想像しただけで、食べに行きたくなりました(笑)


京都の街歩き/基礎知識その2

“丸竹夷・・・”京都の通り名の数え歌

前回、地名のお話をしましたが、京都の通り名を知っていれば、さらに便利です。
と、いうことで、今回は京都の通り名の“わらべ歌”のお話です。


その“わらべ歌”のタイトルは「丸竹夷」と「寺御幸」。
歌詞は以下の通りです。

■「丸竹夷」(東西に走る通り名)

丸竹夷二押御池
姉三六角蛸錦
四綾仏高松万五条
雪駄ちゃらちゃら魚の棚
六条三哲通りすぎ
七条越えれば八九条
十条東寺でとどめさす

→丸太町、竹屋町、夷川、二条、押小路、御池、姉小路、三条、六角、蛸薬師、錦小路、四条、綾小路、仏光寺、高辻、松原、万寿寺、五条、 (雪駄屋町)、鍵屋町、(銭屋町)、(魚棚)、六条、三哲、七条、八条、九条、十条、東寺


■「寺御幸」(南北に走る通り名)

寺御幸麩屋富柳堺
高間東に車屋町
烏両替室衣
新町釜座西小川
油醒ヶ井堀川の水
葭屋猪黒大宮へ
松日暮に智恵光院
浄福千本果ては西陣

→寺町、御幸町、麩屋町、富小路、柳馬場、堺町、高倉、間之町、東洞院、車屋町、烏丸、両替町、室町、衣棚、新町、釜座、西洞院、小川、油小路、醒ヶ井、堀川、葭屋町、猪熊、黒門、大宮、松屋町、日暮、智恵光院、浄福寺、千本


改めて書いてみると、通り名・・・多っ!!

京都の街歩き/基礎知識その1

住所にある「○○通上ル・下ル・入ル」とは??


京都のお店情報などを検索していると、よく見かける「○○通上ル・下ル・入ル」。
京都の人は普通に使っているが、他府県の人はどうだろうか?
実際の住所と違うのだから、検索するのが困難な時があるほど。
ちなみに、郵便ハガキや荷物とかは「○○通上ル・下ル・入ル」でも届きます。


平安京遷都以来、京都の街並みは基盤目状に整備され、東西南北の通りが交差する市街地では、地点表示として、「上ル・下ル・入ル」が用いられます。

まず、「上ル・下ル」は、南北の通りに使われます。北へ行く事を「上ル」、南へ行き事が「下ル」と言います。これは、京都の地形が北高南低になっていることから、北へは上ル、南へは下ルといった説があります。

「入ル」は東西の通りに使われます。東入ルは東へ、西入ルは西への位置を表している。東西に関しては、東側・西側、東詰、西詰などの表示もあります。

ここで練習問題。
「河原町通蛸薬師下ル東側」はどうなるでしょう???






答え/河原町通に面していて、蛸薬師通の南、その東側 の位置する

永観堂の左に振り向く阿弥陀仏



京都には“もみじの永観堂”と呼ばれる古寺があります。本来は禅林寺といいます。創建は仁寿3(853)年、開山は空海の弟子・真紹僧都になる。真紹僧都から数えて、禅林寺第7世住職に永観律師がいます。その永観に不思議な出来事がありました。永保2(1082)年、2/15早朝のこと。永観は念仏行道に励んでいた。仏道への修行の前になんと、本尊の阿弥陀仏が壇上から下りてきたではないか! 阿弥陀仏は永観の先に立って行道を始め、立ち止まっていた永観に対し、左に見返りながら「永観おそし」と告げたとか。我に戻った永観は、阿弥陀仏とともに行道を続けたそうです。

見返り阿弥陀仏と修行した永観は、衆生を救うために阿弥陀仏の姿をとどめることを決意します。鼓動が聞こえそうなほど静けさに満ちている永観堂阿弥陀堂は、堂内の右手に回って見ると、見返り阿弥陀如来像がある。小さな顔立ちには柔和な表情が浮かぶ。それにしても、なんて優しそうな顔をしているのでしょうか。顔は左に振り向いており、今にも語りかけてきそうですね。

常識やマナーを失った者、獣の如く荒れ狂う者達がはびこる今の世にあって、この阿弥陀仏はまさに救世主の面持ちなのである。阿弥陀堂にあった現代に問うならば、という文面の中には、
・愛や情けをかける姿勢
・思いやり深く周囲を見つめる姿勢
・遅れる者たちを待つ姿勢
などとあります。

見返り阿弥陀如来は現世にも救いの手を差し伸べる仏である。そばには、永観律師像も安置されている。永観堂と呼ばれる由縁は、見返り阿弥陀如来像を残した永観律師に帰趨する。

“鯖ずし”のお話



まだ、冷凍設備がない時代、福井県・小浜で浜揚げされた鯖(さば)、かれいはひと塩されて京都に運ばれた。ここに“鯖ずし”の原点があります。

俗に“若狭のひと塩もん”という言い方が京都にある。若狭地方・小浜の港に水揚げされた鯖、かれい、ぐじなどがひと塩ふられ、峠越えの街道を京都へと運ばれた。その街道は小浜から花折峠、途中越を経て、大原、八瀬と走る若狭街道のこと。別名「魚街道」、「鯖街道」ともいいます。個人的には「鯖街道」の方が聞き慣れています。

京へは遠くても十八里、小浜から京都七口の一つ、大原口(現在の寺町今出川辺り)まではおよそ72km前後。ひと塩ふられた魚は七口(出町)に着く頃にはちょうどいい塩加減になったそうです。これが、京都の人にとって、貴重な海の幸になったのです。

“鯖ずし”は三枚におろした鯖にほどよく塩をふり、酢に通して締め、棒状にした酢めしの上にのせて、昆布で巻いて出来上がり。分厚い鯖の身を酢めし、昆布の味が一体となって、何ともおいしいこと。
京都では、昔からお祭りなどがあれば、各家庭では鯖ずしを作ったそうです。

そんな“鯖ずし”にも、最近、悩みがあります。身の厚い鯖が少なくなっているそうです。若狭の鯖もめっきりと減り、商売用のための形が整った鯖をそろえるのが困難になっているとか。これは鯖に限らず、他の魚にもいえることで、地球温暖化問題に関係しているのかもしれませんね。
ちなみに、“鯖ずし”は鯖街道沿いの滋賀県・旧朽木村(現高島市)にもあります。食べ比べてきるのもいいかもしれませんよ。

夜中、小腹が空いたから「お茶漬け」を食べる。

仕事を終え、帰宅し、夕食を食べ冷えたビールを一缶。疲れた時のビールはおいしいものです。
・・・数時間後、小腹が空く。そういう時、皆さんはどうしますか?
私は、ラーメンを食べたり、お茶漬けを食べたり、なぜか、夜中に食べるとよりおいしく感じるんですよね。
と、いうことで、今回は「お茶漬け」のお話です。

京都言葉で“お茶”のことは“ぶぶ”または“おぶ”といいます。
従って、「お茶漬け」は“ぶぶ漬け”または“おぶ漬け“となります。

そして、その「お茶漬け」のおかずはやっぱり「漬け物」です。
京都には「漬け物」が豊富にあります。しば漬け、すぐき漬け、菜の花付け、からし漬け、千枚付け・・事欠く事はないです。
ちなみに、東京などでは、「お茶漬け」といえば「シャケ茶漬け」、「タラコ茶漬け」だそうです。

茶碗にご飯を入れ、熱いお茶を注ぎ、「漬け物」をおかずに、サラサラ〜と食べる。
この記事を書いていると、また「お茶漬け」が食べたくなってきました(笑)

京都の家庭料理「おばんざい」って、どんなもの?

京都には“おいしいもん”がたくさんあります。その一つが庶民の味という「おばんざい」です。
京都の知恵が盛り込まれた料理といわれ、今も母から子へ、子から孫へと受け継がれています。

「おばんざい」とは、普段食べる毎日の“おかず”のことです。
一説では、漢字で書くと「お番菜」と書くそうです。
この「番」という字は番茶とか番傘などと使われているものと同じ意味。
ちなみに「おばんざい」は関東でいう「お惣菜」と同じ意味です。

「おばんざい」は春夏秋冬それぞれに小鉢に旬の味を運びます。
例えば・・・
春)赤貝ととり貝のてっぽう和え、竹の子の精進炊き
夏)加茂なすの田楽
秋)ズイキの煮物
冬)ふろふき大根、鯛かぶら  等
こうした「おばんざい」は何十種類もあります。これらは精進料理・懐石料理などが一般庶民に広まって、発展したものだとか。そして、「「おばんざい」は新しい発想で食べる知恵も生まれており、少しずつ内容も変わりつつあるそうです。

過去、「おばんざい」には決められた日に食べるものがありました。
朔日には‘にしんこぶ’、15日の‘いもぼう’、月末の‘おから’などです。
また、8のつく日は‘油揚げの刻んだもの’と、‘海草のアラメの焚き物’が食卓に並んだそうです。
月ごとに、節句にも必ず食べるものがあったそうです。
「おばんざい」は食のカレンダーと言えるかもしれませんね。

あなたは「嵐電」の駅名を読む事ができますか??



龍安寺、妙心寺、仁和寺、広隆寺といった人気のお寺への最寄り駅が重なる「嵐電(京福電鉄嵐山本線・北野線)」。京都にお住まいの方には親しみのある駅名ですが、他府県の方には難読駅名が多いことでしょう。

その代表的な駅名をご紹介しましょう。

○嵐山線
「西院」
「蚕ノ社」
「太秦広隆寺」
「帷子ノ辻」
「有栖川」
「車折神社」

○北野線
「御室仁和寺」
「常盤」

あなたはいくつ読めましたか?
答えは下記の通りです。
「さい」
「かいこのやしろ」
「うずまさこうりゅうじ」
「かたびらのつじ」
「ありすがわ」
「くるまざきじんじゃ」
「おむろにんなじ」
「ときわ」

ちなみに阪急京都線にも「西院駅」がありますが、この時は「さいいん」と読みます。

この記事を書いている際、駅名が変わったことを聞き、慌てて修正しました。
学生の時に利用していた時は「太秦」、「車折」、「御室」でした。
他にも変更になった駅名もありますが、それは「嵐電」のホームページにて。

東寺があって、なぜ西寺がないのか???



実は「西寺」はあったんです!!しかも、どちらにも五重塔があったんです。

時代は平安時代(延暦13年)。
東寺、西寺は国家鎮護を目的とした官寺(国家が営む寺)でした。
東寺には東南隅に五重塔がそびえ、西寺には西南隅に朱塗りの五重塔が。
五重塔は左右対称に位置していたことになります。

官寺としてスタートしたが、やがて嵯峨天皇の御代になると、東寺は空海(弘法大師)に委ねられることになります。東寺は後に信言密教の道場として発展を遂げます。
一方、西寺はあくまでも国家鎮護のためにありました。その結果、民間の出入りが多くなった東寺に比べ、次第に衰微することになります。

東寺は再建を重ねながらも、平安時代からその寺域が変わっていないそうです。
これは京都では稀なことだとか。
しかし、西寺は消滅し、往時を知らせるように石碑が残るのみ。

西寺は平安時代末期に焼失し、鎌倉時代に廃寺となり、その後も再興されることはありませんでした。

京都・平安京においては左京が発達、右京は湿地帯などが多く発展しなかったという経緯があるそうです。西寺もこのジンクスにはまったのかもしれませんね。

銀閣寺の「銀」は?



足利義政(8代将軍)は祖父・足利義満(3代将軍)が造営した金閣(舎利殿)にならい、銀閣の建立を夢みたとしたら・・・。
そこには、銀に輝く建物が残っていることでしょう・・。
しかし、銀閣(観音殿)はただ黒の漆が目立つばかり・・いったい銀は???

義政は父・義教の不慮の死、兄・義勝の夭折により、回ってきた将軍の座。義政は8歳で将軍の座に就いたとか。しかし、彼の性格は政治に不向きとされ、芸能事に興味を示したそうです。やがて、将軍の職を息子の義尚に譲ってから顕著になり、東山山荘の造営に心血を注ぐ事になったようです。

当時は銀閣寺ではなく「観音殿」と呼ばれた。義政は上層の潮音閣の天井に銀箔を貼付けようとしたとされていますが、その真偽は・・・定かではありません。

義政は延徳2年(1490年)の正月7日に、中風のため56歳で薨去。観音殿は工事半ばだったとかで、義政は観音殿の完成を見ずにして、この世を去ったようです。

結局のところ、謎のまま。
銀閣寺が銀色に輝く姿を見てみたいものです。

「おこしやす」と「おいでやす」の違いって?

「おこしやす」と「おいでやす」

京都にいればよく聞く言葉。
でも、よく考えたら、どっちも「いらっしゃい」という意味ですね。
違いって何だろう?




「おこしやす」の方が丁寧な言い方で、大切なお客様や、常連客、遠方からの来客者に使うそうです。

「おいでやす」は一般のお客様、一見さんへの言い方みたいです。

確かに「おこしやす」とは言われたことないなぁ。
まぁ、言われるようなお店に行ってないだけなんですけれども!!

ちなみに、みなさんはどっちを使ってますか???
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